2022.04.25 Writer:弾語亭マレンコシ(音蔵カンサイアンバサダー)

カンサイライブ名所巡り1 アムホール(大阪キタ)

ステージ高1メートルのど迫力ライブスペース!


みんなのライブハウス

ステージ高が、1メートルもある。そんなライブハウスは、ちょっとない。

きわめて稀だと言っていいだろう。

多くのライブハウスのステージ高は数十センチであり、ステージ上のパフォーマンスは、観客席からはせいぜい「腰から上」が見える。それがごく普通のライブハウスなのである。

しかし、1メートルというステージ高があるアムホールは、観客席からステージ上のパフォーマンスを「足元から全身」全てが見える。この迫力が、アムホールの特長の一つである。

従来は60センチであったアムホールのステージ高が1メートルになり、音響、照明がさらに強化されたのは5年前のことだ。この画期的なリニューアル、実は出演者たち有志が実行に移したクラウドファンディングによって実現した。


アイドルを含めたアーティストたちが、自分たちのパフォーマンスをより追求するために、ホール、そしてファンと一体となってこうした進化をも実現する、「みんなで盛り上げ、新しいエンタテイメントを共につくりあげるホール」。

それが「アムホール」の、もう一つの特長である。


Since 1985

1985年10月25日、アムホールは誕生した。

阪神タイガースが21年ぶりのセ・リーグ優勝を決めた6日後のこと。大阪の街は連日どこもかしこもがまさに狂乱状態、天神祭が21年分まとめてやってきたようなお祭り騒ぎで、アムホールがスタートしたこの日も、曽根崎お初天神通りには多くの警察官が出動していた。

オープン当初のアムホールは、飲食メインで落ち着いた音楽を楽しむことができるスペースで、人気を博していた。やがて、80年代後半から90年代初頭にかけて空前のバンドブームが訪れる。

もとより、大阪屈指の繁華街曽根崎にある「立地」、500名の「収容力」、充実した音響・照明等「設備」の三拍子が揃ったアムホールである。このバンドブームに乗っかって、バンド中心のブッキングによるアムホールの運営は最初の絶頂期を迎えていく。


バンドブーム

さてバンドブームというと、’80年後期から1990年代初頭に起こったあのバンドブームをイメージする人が多いだろう。ただ、今からもう30年も前のことなので、若い人には実感ないことと思われる。なので、少し補足しておきたい。

実は日本で起こったバンドブームは、これが初めての事ではない。というのも、1960年代にはベンチャーズがもたらした、サーフ・ミュージックのバンド・ブーム(エレキ・ブーム)と1960年代中期のグループ・サウンズ(GS)という名のバンドブームがあった。

1970年代に入ると、ジャパニーズ・メタルの始祖ともいえるLAZY(レイジー)が現れ、和製メタルや和製ロックのバンドが相次いで出現。それとは全く別に、関西では上田正樹と有山じゅんじ、憂歌団らによる「なにわブルース」、村八分やウエストロードブルースバンドなどの「京都ロック」が盛り上がった。’80年代初頭~中期にはヘヴィ・メタル、パンク、ハードコア・パンクがにわかに盛り上がったが、これらはブームと呼べるほどの勢いはなかった。

何が言いたいかというと、アムホールスタート直後に巻き起こったバンドブームも30年前に収束したが、歴史は繰り返す、また新しい形でバンドブームは起こるだろうということだ。ともに前向きなイメージをもって音楽を続けていただきたい。

話を戻そう。アムホールが乗っかった史上空前のバンドブームは、1988年に始まり1992年に終わったそれである。足掛け5年だったが、日本のライブ文化が大きく変わり、発展した5年弱だった。


アムホール代表者の青年時代

片山行茂(現在アムホール運営会社ソアーズミュージック代表取締役社長)も、この空前のバンドブームの中で音楽にのめり込み、メジャーデビューを目指したミュージシャンの一人だった。自ら率いるバンドでメジャーデビューし、大成功するという夢を描いていた。


片山には勝算があった。成功の確信、圧倒的な自信があった。

事実、自分で作った曲を自分で歌え、しかもバンドのセンターで圧倒的に存在感を発揮できる片山には、音楽事務所からいわゆる「引き抜き」のオファーがたちまち殺到していた。音楽産業の事情からすると、バンドは切り盛りしにくいし、融通が聞きにくく、管理費も重い。バンドブームも去りつつあった。「ピン」すなわち「ソロミュージシャン」で売れるなら、それに越したことはないのである。

しかし片山はオファーに首を横に振り続け、「ヒール」さらには「夢幻模様」という自分のバンドにこだわった。バンドでしか表現できない自分たちの音楽、パフォーマンスを磨き、バンドとしてのデビューにこだわり続けた。それでも事務所のしつこい説得は続く。片山についに折れ、「優稀(ユウキ)」というシンガーとしてメジャーデビューを果たす。


若かりし日の片山は、尖っていた。怒っていた。ツッパてもいた。触ると怪我をする、そんなキレとテンションで張り詰めていた。

「こんな曲は俺じゃなくてもええ。他の歌手に歌わせたらどうや」

作曲家が持ってくる曲には、大阪弁で容赦のない悪態をつき、自分のやりたい音楽にこだわった。売れたいがために事務所の方針に従う、そんなタイプではなかった。

時すでにバブルははじけ、バンドブームもすっかり去っていた。そんな東京で、片山は3年間頑張った。

しかし結局、自分が良いと思う音楽は、売れなかった。売れなければ次の契約更新はない、それが音楽界だ。心の中で限界まで張り詰めていた糸が、プツンと切れた。片山はぽつりと呟いた。

「疲れた。東京はもうええわ。大阪に帰ろう」

メジャーデビューは果たしたものの、疲れ果て、心は折れて、ボロボロになった東京での3年間。しかし、日本の音楽シーンを利権構造を含めて理解し、ミュージシャンとしてそれを体験する貴重な時間でもあった。


ビジュアル系、プロレス@世紀末

アムホールは、ライブハウスとしてみたらかなりでかい。スタンディングなら500人も入ってしまうハコだ。


それだけにバンドブームが去ると、このハコをバンドのブッキングでなんとかしのぐことが厳しくなっていた。

東京から大阪に帰ってきてアムホールで働き始めた片山の最初の仕事は、ホール内カウンターでのドリンク係。心身ともに疲れた体をリセットし、新たな人生に向かうには、勉強する時間もあり、ちょうど良い立ち位置だった。

ここから片山の新たなチャレンジは始まる。

時代の移ろいは速い。

1997年になると、ライブ音楽シーンはビジュアル系バンドが席巻していく。

「X(X-Japan)にも出てもらいましたが、DIR EN GREY(ディル・アン・グレイ)のステージは伝説ですね。急遽決まった出演の前日に告知すると、500席があっという間に完売。他のビジュアル系バンドのメンバーがステージからお客さんにダイブしたり、興奮して泡を吹くお客さんが出たり。」

片山には、お客さんの安全を確保する責任がある。こうした一つひとつのアクシデントを糧にして、片山は経営者として成長していく。もともと、音楽の他にも、「感動のコンテンツ、エンタメ」に広い関心と造詣深い片山は、1999年に旗揚げした大阪プロレスの立ち上げ、成功にも一役買った。

「ホール中央にリングを設営し、周囲を客席に。笑あり涙有りのメッセージ性の強い興行は、連日超満員でした。プロレスだけではありません。ミュージカル、演劇。すばらしいコンテンツをナマで楽しめる、そんな場でありたいとの思いが次々にカタチになっていきました。」


日本初の全面禁煙@2001

そんな片山にとって大きな決断となったのが、ホールの全面禁煙だった。

2001年、アムホールは「全面禁煙のライブハウス」を打ち出す。おそらく、いや間違いなく「日本初」だ。片山は振り返る。

「お酒を飲み、タバコを燻らせて、音楽を楽しむ。そんな大人の遊び場でタバコを吸えないなんてあり得ない、というお客様の拒絶がすごかったです。従業員からも、そんな職場では働けないと総スカンを食いました。」

当時、まさか「ライブハウス」と言う場所でタバコを吸えないなんて、あり得なかった。

「ライブハウスとしてはおそらく日本で最初の全面禁煙でしょう。現在にとらわれることなく、音楽を、エンタメの将来を、広い視野で捉えたからこそできた決断だったと思います。」

まずはお客さんの安全、安心ではないか。

間違っても事故は起こさない。そのためにはどうするのか。

そして、音楽も、エンタメのスタイルも、楽しんでいただくお客さんも、どんどん多様化している。これからは、子どもたちも楽しめ、可能性を広げる場であることもより必要ではないか。

アムホールの収容能力や、その先進の設備環境は、もっともっと「多目的」に活用できるはずだ。

片山は、自分の頭を何度も駆け巡るこうしたことについて自問自答を繰り返した。そして、21世紀の入り口において、新しい時代のアムホールを築く、大きな決断をしたのだ。

片山の決断が正しかったことは、出演アーティストたちのジャンルの広がり、レジェンドミュージシャンだけでなくアイドルたちや学生など若い人たちの新しいチャレンジの場として支持の幅を大きく広げ、アムホールの存在意義や貢献の次元増床を実現したことで証明された。そして、365日ほぼ休む暇もなく、アムホールは大盛況のイベントが目白押しと言う活況で、新しい正規の序盤を突っ走ったのである。


エンタメの発信&創造基地として 

片山はエンタメというものが好きである。

だから音楽だけでなく、早くから演劇やミュージカルの公演にもチャレンジしてきた。

自らの経験もあって、時代の流れには敏感だ。


「時代が求めるものを、高いレベルでやって行きたい。立地や規模の強みもありますが、演出のクオリティ、音の良さこそは、アムホール最大の強みです。音楽、エンタメの進化によって、お客さんの目も耳も、どんどん肥えています。アムホールは、その上を行かないといけない。本物がナマで味わえる場というのはそういうことだと思います。」


また、これからの時代のキーワードとして、「コラボレーション」の大切さを語る。


「例えばミュージカルは、ダンサー、アイドル、シンガーソングライター、俳優…。ステージ上だけでもいろんな才能が個性的に光り輝きます。そうした才能のコラボレーションは、コンテンツの進化にもアムホールの進化にも大きな力をくれます。」


アムホールのHPを開いてみてほしい。am HALL

特に、「良い音」と「自在な演出を可能にする各種の素晴らしい設備」には驚くばかりだ。2019年には大幅な設備投資も行い、多目的ホールとしてさらに大きく進化した。片山は続ける。

「アムホールはライブ配信にも取り組んでおりますが、今後はバーチャルの世界とも融合していくことでしょう。例えばVRで見たときにもクオリティの高いもの、それを今から、時代の半歩先取りしていきます。アイドルとそのファンの方たちから、平日の昼間に楽しみたいシニア層の方々まで。クオリティこそがアムホールの生命線だと思っています。」

片山は自分に言い聞かせるように、取材の最後、こう結んだ。

「アムホールは、気がついてみれば今や【大阪最古】の存在となりました。日本の音楽シーンのレジェンドとも言えるアーティスト、ツアーの一環で来阪されるアーティストの出演も多数ありますが、地元で活動するシンガーやバンド、アイドルグループ、関西の人気ダンサー、各大学軽音楽部、各企業軽音楽部、ダンスサークル等々、音楽を愛する実に幅広い方に多様な目的でご利用いただき、アカペラに関しては【学生アカペラーの聖地】と言っていただけるようにもなりました。

どのような目的であれ、それが公序良俗に反するものでなく、音楽やエンタメを愛する心から発露するものである以上、それがどのような新しい試みであっても、出演者の皆さんには最高の設備を駆使した最高の演出で最高のライブパフォーマンスを実現していただき、お客さまにはそれを安心安全な環境で心ゆくまで楽しんでいただく。それがアムホールの使命だと思っています。」


音楽がある限り。

アムホールの挑戦は続く。